子どもの中の暴力と平和
――学級崩壊から憲法・教育基本法へ――

 

                  竹内常一

<『教育』八月号 特集「暴力の世紀に、暴力を越える教育実践を考える」所収>

1「死ぬ!」「死ね!」「殺す!」

 子どものなかから「死ね!」「死ぬ!」「殺す!」ということばが噴き出すようになってから、もう何年になるだろうか。いまでは、これらのことばは中学生にとどまらず、小学低学年の子どもの口からもついで出るようになっている。

 一体、これらのことばはどのような社会的な回路、人間関係をつうじて子どものなかに突出してくるのだろうか。これらはいじめ・いじめられにみられるような暴力の連鎖のひろがりのなかで、どのような「質」をもつものとして現れてきているのだろうか。これらのことばを吐く子どもの言動は加害としての暴力なのであろうか。それとも、被害者の報復の暴力なのだろうか。

 このように問うのは、いじめが噴出した一九八〇年代のから、いじめと迫害のために自死する子どものケースだけでなく、いじめられるものがいじめるものに報復するケースに注意してきたからである。そのわけは、いじめられてきた子どもはどのようにしていじめられ体験から自由になるのか、そのためにどれだけの年月をかけなければならないか考えてきたからである。そればかりか、被害者は加害者のボスを殺害して、川に投げ込んだ大阪の高校生たちのように、報復するほかに被害体験を越えることができないのだろうか。そうだとしたら、被害者による報復とテロルが続発するのではないかと当時から怖れてきたからである。

 そうした私の怖れは、その後、つぎつぎと現実化していった。そして、いまでは、いじめられたものがいじめるものとなり、被害者が加害者として立ち上がるという暴力の連鎖が私たちを取り巻くようになった。そうなったときに、あの「九・一一」が起こったのだ。暴力的支配にたいする報復のテロルがはじまったのだ。そして、それにたいする暴力的制圧が全世界的に行なわれるようになったのだ。

 いささか話を先取りした感があるが、このような状況のなかで、子どもはこれまで以上に暴力の連鎖のなかにとりこまれ、その暴力性を悪性化させつつある。だが、それと同時に、暴力の連鎖から自分たちを自由にしようとする実験が子どもと教師によって試みられている。それは、いま暴力から非暴力への、暴力と戦争から平和への転換点を探っている全世界の試みに連なるものだ。

だが、その転換点はどこにあるのだろうか。それを本誌の本年二月号に寄稿している鈴木和夫の記録を中心に検討していくことにしよう。(1)

 

2「俺なんか居ない方がいいんだ。死んでいればいいんだ」

 Tは、「アスペルガー的な傾向、前頭葉に血液が行かず、セルフコントロールに難がある」といわれている。かれは小学二年のときに転校してきたが、前の学校ではパニックを起こすたびに保健室に隔離されていた。転入後も、かれはトラブルを繰り返し、暴力的で、モノをなげつけることがつづいた。ひどいときはカッターナイフを持ち出すことがあった。

 そうしたT6年になったときに担任したのが鈴木である。記録によると、担任早々、Tに注意されたSが「パニくるお前なんかに言われたくないよ、ばーか、死ね!」といったことがきっかけに、Tは黒板けしを投げつけ、バケツをもちあげて投げようとした。クラスの男子たち「またいつものTのパニックがはじまった」と嘲った。Tは「そうかよ。俺が死ねばいいんだ!『居なきゃいいだろう!』」と叫んだ。それにたいしてある子が「そういうこと・・」と返したために、Tは暴発したのである。

 このときは、鈴木はSTの手をにぎってロックし、事実を確かめたうえで、「自分のルール破りを指摘されて、死ね!はないだろう。相手が誰であれ,自分に落ち度があったら先ずそのことを謝り、直す。それが社会のルールじゃないか」とTを弁護した。そればかりか、Tを嘲った子どもたちに「ルール破りとTのパニックを比べたらルール破りのほうがまだマシかい?」とたたみかけている。

第二のパクックは、Tがゲームでどうやったら人を殺せるか話していた男子のなかに加わろうとしたのをすげなく断られたことから起こった。Tは刃のでていないカッターナイフを持ち出して、Yの後ろからYの首に当て「一気に引けば死ぬんだ」といった。Yはびっくりして、Tの首を締めて「こうすればいちころなんだよ。このバカ!」とやったために、Tは逃げながら消火器やいすや机を投げつける大暴れをした。

その後、鈴木がTに「君は、トラブルを起こすと相手が怖くなる?」「だから、相手が向かってこないように物を投げて、逃げ出すの?」とたずねたところ、かれは黙ってうなずいた。

「いつから?」−「一年の時から・・」

「自分が怖い?」−「怖い」

「どうして?」−「何をするか分からなくなるから」

「自分が好き?」−「嫌いにきまっている。誰だって嫌いだよ。僕のことは・・。」(中略)

「友だち、ほしいの?」−「ほしい・・だけど、だめなんだ。全部だめだったから。俺なんか居ないほうがいいんだ。死んでいればいいんだ」

「本当にそう思う?」「そうじゃないだろう?」−「じゃ、先生はどう思っているんだ。居ないほうがいいと思っているんだろう。」−「そう思っていたら、こうやってお前と話し合っているかい?」

このあとYがやってきて、「自分自身が怖い」「Tと遣り合っていたとき、Tの首を締めたことが頭から離れない」というのである。また、「その場にいたEたちがYの『兇暴性』が怖いといって離れて行った」という。当事者を集めて問いただしたところ、Eもまた「俺だって怖くなるんだ」といった。

当事者たちを集めて、この話をしたところ、Tは「話してもらってよかったのかもしれない」と納得し、「@仲間であること、Aトラぶってもモノは投げない、B外さない、C何かする時はきちんと話し合う、D(ケンカを)やった後は、根にもたない、E悩みがあったらみんなに話す」という契約書をかれらと交わした。

その後のことは割愛するが、Tはなんどもキレ、椅子やモノを投げようとすることがあったが、そうしたとき「教室の真ん中に椅子投げていいか?」と友だちに問い、振り上げた椅子をだれもいないところに転がすように投げて席に戻るようになった。子どもたちもTが怒るだけのことがあるとみたときは、「キレたっていいよ」というようになった。だからであろうか、自分をコントロールできないときでも「先生、〜してもいい?だめだよな」「M男、やっていいか?だめだよな。分かっているよ。分かっているって」と自問して、矛をおさめるようになった。

 

3「オマエなんか生きている価値がない。死ね!」

 このなかには検討すべき箇所は多々あるが、まずTYのいう「自分がなにをするか分からない」という怖れ、自分の「凶暴性」にたいする怖れから考えることにしよう。

 かれらがこのような怖れをもつのは、ひとつには、かれらがこれまで暴力にさらされ、暴力の恐ろしさをからだで知っているからであろうが、いまひとつは、その被害の暴力から加害の暴力に転じていくとき、自分のなかからなにが噴き出してくるか怖いからである。

こうした怖れは下学年の子どものなかにもみることができる。虐待やネグレクト、軽度発達障害などのために荒れつづけている子どもの多いクラスを担任した小野由岐によると、大暴れをし、止めに入った彼女にも蹴りを入れていたシオンが、突然、「殴りたくない。でも、ぼくはぼくをとめられない」と叫んだという。2

ここには、殴ろうとする自分と、殴ることに恐怖を感じている自分との争いがある。だが、自分では殴ることを止めることができないのである。その怖れのなかで、シオンは「ぼくをとめて!」とヘルプを求めたのである。長く実践記録を読んできたが、こうしたことははじめて聞く話だ。

小野はこの子らの荒れについて「傷ついた分だけ荒れなければ、こころが癒されないのかもしれない。本当は安心して生きられる場所かどうかを、『荒れる』こということを通して捜しているのかもしれない」とのべている。

たしかにそうだろう。だが、子どもは「傷ついた分だけ荒れる」その荒れが、自動詞「荒れる」から他動詞「おかす」(「侵す」「犯す」「冒す」「陵す」「暴す」)になることを怖れているのではないか。かれらはその怖さを経験してきたのではないか。だから、他人を「おかしかねない」自分を救ってほしいといっているのではないか。その意味では、この子どもたちは被害から加害への転ずる地点にあって苦しんでいるのだろう。

この子らの「荒れ」の底には、「オマエなんかいなければよかった」と言われたことへの恨み、「子捨て」(棄民)へ恨みがあり、そのために「俺なんか居ない方がいいんだ。死んでいればいいんだ」という自暴自棄がある。

実践記録を読んでいると、これとおなじ叫びによく出会う。たとえば、ある記録は「自分については『どうせオレは生きている価値がない』と言い、まわりの子に対しては『オマエなんか生きている価値がない。死ね!』と繰り返す」Rという子のことを報告している。

おそらくRはだれかから「オマエなんか生きている価値がない」といわれ、そのだれかを自分のなかに抱え込んできたのであろう。そのだれかは具体的な他者であると同時に、かれを取り巻いてきた社会的集団だったにちがいない。そのなかでRはその声を自分のものにし、喘息・アレルギーのある自分、ADHDではないかという疑いのある自分、人とトラブルを繰り返す自分、友だちからそういうヤツだと思われている自分などは「この世にいらない存在なんじゃないか」と責めるようになったのではないか。そのために、「まわりの子と違う不安、自己存在への不安、進学や将来への不安」をますます抱えるようになり、「俺ってへん。殺してくれ」と叫ぶまでになっているのである。

だが、他方でRはそういう弱い自分を守るために、Tとおなじく、むずかしいことばや専門用語を並び立ててクラスを仕切ろうとする。そうなればなるほど、かれの感情はやわらかさを失い、身体が硬直化し、ことばとからだのアンバラスがひどくなる。そんななかで、自分を守るための暴力を合理化するために、戦争と軍隊に異様な関心を示し、「きさま、それでも日本国民か」と脅しをかけるようになる。『アンネの日記』を読んでも、アンネに共感するのではなく、ヒットラーを賛美し、「ヒットラーだったら、誰を殺したいか」と教師に聞きにくる。

かれのなかに取り込まれた支配的な他者はかれを呑み込み、かれを暴力に駆り立てるものとなっている。そのために、かれはあらゆる人間関係を支配・被支配、強者・弱者の関係とみなし、暴力でもって自分を支配者の位置につけようとする地点にいるのであろう。

だが、そのように暴力を繰り返しても、自分についての不安と怖れから解放されることはない。だから「もう自分は終わりだ」と訴えてくる。もとからの不安と怖れだけではなく、暴力化する自分にたいする不安と怖れがこれまで以上にかれを苦しめるのであろう。

 

4 子どもの「荒れ」と「暴力」を読みひらく

 このような子どもの暴力についての考察を前提にしてTにたいする鈴木の関わりを細かくみることにしよう。

 その第一は、子どもの荒れと暴力とを区別していることである。一方で、「いじめたいときはいじけていい」「怒鳴りちらしたいときは、そうしてよい。」と認めている。ただし、その場合、「他人の権利を侵害してはならない。他人に迷惑をかけることはしない」と教えている。だから、荒れるときは外でと教えている。かれは荒れるクラスを担任する際に、職場にこの方針の承認を求めたのである。

ここには、荒れる子どもを秩序に強制的に服従させることにたいする断念がある。教師とは異なる言動をとる子どもと生活をともにするのであれば、寛容でなければならないという判断がある。これが教師と学校の「度量」「心の広さ」というものである。

だが、子どもの荒れが暴行に転じ、他者の権利を侵害するものになるときは、身体で阻止することも辞さない。だから、TSをロックし、ケンカにも介入する。

 こうした鈴木の姿勢は、子どもの暴力に直面している親にたいして「子どもの苦しさを理解してあげてください」という治療の専門家の助言とは異なる。野田正彰はそうした助言は「空虚な言辞」にすぎず、親を苦境に追い込むだけだと指摘している。4私もそう思う。こうした言辞のために、どれだけの教師が自分のいたらなさを責め、敗北感のなかで職を辞することになったか調べてみるがよい。

それはともかく、鈴木は、SにたいするTの「注意」はクラスを仕切ろうとするものであり、そのトラブルはクラスからはずれている二人の暴力的(サド=マゾ)的な関係の現われであるとみていたようだが、実際はそれを問題にするのではなく、その状況のなかでのTの正当性を擁護し、「注意」と「死ね」を正義の天秤にかけたのである。

この対応はTだけではなく、子どもたちにも驚きであった。かれらは一瞬きょとんとしていたが、最初に謝ったのはTであった。Tははじめて公衆の前で教師に守られただけでなく、肯定的に評価されたからである。鈴木のおかげで、Tは暴力の渦のなかに引き込まれていく怖れから逃れることができたのである。その意味では、鈴木が暴力をとりおさえた行為は、かれのなかの暴力への怖れに応答するものであったのではないか、

また、鈴木は、Tの「注意」の心理的意味ではなく、社会的意味を取り出して、クラスに提示し、「注意」と「死ね!」を正義の天秤にかけることを求めたのである。

さらに、「パニくった」というまわりの子どもの嘲りにたいして、Tのパニックは「死ね!」といったSにたいする怒りと抗議ではないかと問うたのである。

これらがTとの対話を可能にしたのではないか。さきの対話はつぎのようにつづいている。

「本当かよ?絶対逃げない?捨てない?」

「ああ、たった一年だけど、とことん付き合うよ。パニックおこしても付き合うさ。それをしないで済むようになるためにはどうしたらいいか一緒に考えるよ。・・モノを投げつけない。これだけは約束する。」

「約束する。破ったら、また約束して!」

「約束しないで済むまでな。」 

 このようにみてくると、鈴木は暴力を防ぐという形で「怖い!」というTの内心の声に応答し、つぎにかれの怒りが正当なものだとTとクラスの子に返し、なにが正義なのかを問うているということができる。つまり、子どもの内面に声に配慮し、応答するものとしてのケアが、正義とはなにかを知的に問い直し、書き換える対話へとひきつがれている。

このようなケアと正義があるとき、子どもは「不安と恐怖と暴力」から「安全と非暴力と平和」への転換点にたつことができるのではないか。

このことは、レイプの被害者が自己を取り戻し、他者との共生できるようになるためには、治療のなかで「告白」するだけではなく、それを社会的な「告発」とし、加害行為にたいする「証言」にしなければならないというジュディス・L・ハーマンによっても証明されている。5

 

5 暴力の閉域を越えて平和の地平へ

 この実践のなかで、鈴木は子どもたちと「暴力の連鎖」のなかに閉ざされていることの「不安と恐怖」を確認し合っている。そればかりか、自分たちがその「暴力の連鎖」を強め、その「不安と恐怖」を増幅させていることを確認させている。そうした確認を基本にして、暴力を越えて平和に生きるための「(社会)契約」を子どもたちに結ばせている。自分たちもまた暴力の連鎖をつくっているのであれば、自分たちでその連鎖を断ち切り、「不安と恐怖」の社会を「安全で平和」の社会につくりかえることができないはずはないというのであろう。

だから、鈴木は子どもたちにたいして「今、みんなに必要なグループは、よそよそしさのなかで、一人一人がどのように手をつなぎ、生活と学習を助け合っていくか、ということ、それに、よそよそしい関係だから、みんなが人としてつながるために必要な作法とルールをつくり、それに従って生活し、親しさというものはどういうものなかを検討し、必要であれば、その関係やルールさえも変えていくこと」を要求している。鈴木は子どもたちが「社会契約」をすることでもって、クラスのなかに平和な子ども社会をつくりだすことを求めているのである。

 ここで使われている「よそよそしさ」ということばは、「学級崩壊」というコンテクキストを抜きにして理解することができない。その文脈から考えると、「よそよそしさ」ということばは、「親密」のなかで人格を「侵害」しあい、「侵害」しあうことで「親密」をつくりだしている子どもたちの関係性を批判するものとして使われているのではないか。鈴木が「よそよそしさのなかで手をつなぐ」ことを「市民的な関係」とよんでいることから考えると、このことばは「なれなれしさ」と「相互侵害」のなかにある子どもたちに「市民的な関係とはなにか」「市民的作法とはなにか」「暴力的ではなく平和的に生きるとはどういうことか」を感得させることばであったのではないか。

ところで、このように「契約」によって子どもの社会をつくりだしていくにあたって、鈴木はいくつかのことを原則にしている。

そのひとつに、契約に反して過ちをおかすものに寛容であることを子どもたちに求めていることである。そうした鈴木の要求は、Tが椅子をころがすだけで席に戻ったとき、「Tは約束通り、人に向かって椅子を投げなかった。Tが怒ったのは当たり前だし、キレたことも当たり前だ。俺だって、誰だって、そういう時、おこるし、キレる・・だから、Tに拍手」といったMのことばとして具体化されている。子どもたちは、荒れる子どもにたいする鈴木の態度をみて、寛容が和解できないものの共存を保障し、相互理解をふかめ、連帯をつくりだすことを学んできたのであろう。

だが、そうだからといって、子どもたちは暴力に妥協したりするのではなく、暴力にたいする怖れに共感し、暴力に抗議し、社会的正義と平和を追及することができるようになっている。暴力にたいする怖れを受け容れ、それを怒りに転換していくこと、私憤を公憤に高めていくことが子どもたちのものとなっている。

そのことは、ゲームでの殺人の仕方を話し合っていた男子にたいする女子の批判のなかにみてとることができる。

「人を殺すゲームに夢中になっているなんて最低。人の命を何だと思っているの?」「あのね、こんな事件で言いたくもないけれど、世界中で戦争しているの、いいことだと思いますか。この男子のトラブルはそれと一緒!」「毎日社会で起きている事件についてスピーチしたり、イラクの戦争のことについて学習したりして、命について考えてきた。きみらもそんな殺し合いや戦争は反対!なんて堂々と発言していたじゃない。発言したことと全く違っているじゃない。どういうこと?」

子どもたちは授業のなかで「みなさんは平和的に生きられますか」というテーマで学び、「暴力的に生きること」「平和的に生きること」とは具体的にどういう生き方なのか問うてきたが、それがこのことばのなかに息づいている。

 このようななかで、「死ね!」「殺す!」と叫んでいた子どもたちは、支配的な他者に代わる共生的な他者を自分のなかに宿らせるようになり、暴力による自己武装から自由になり、他者と平和的に生きる地平にたつことができるようになっている。

その意味では、いま子どもと教師は「学級崩壊から憲法・教育基本法へ」と遡行し、「ひとしく恐怖と欠乏から免れ、平和のうちに生存する権利」を自覚的に行使し、テロルと報復の時代を越えて、安全と平和と社会的正義をつくりだす途上にあるということができる。


1鈴木和夫「Tという子と集団づくり」(『教育』二〇〇五年三月号)。「『事件の核心は?』−女子の読み解き」(『生活指導』二〇〇三年十二月号所収)、「Tという子と集団づくり」(『生活指導』二〇〇四年一一月号)、「アスペルガーの子どもと学級の子どもたち」(『竹内塾 瓦版』第14号、二〇〇四年九月)。かれの実践記録は『対話でつくる子どもの教育』(仮題)(山吹書店刊行、績文堂発売)として公刊されることになっている。
2小野由岐「傷ついた分だけ荒れているの?」(『生活指導』二〇〇五年六月号)
(3島田晶子「第12回竹内塾のまとめ(N氏報告と討論)」プリント版、二〇〇四年二月)。Nによる記録は公開されていないので、ここでは紹介できない。
4)野田正彰『共感する力』二〇〇四年、みすず書房
5)ハーマン『心的外傷と回復<増補版>』一九九九年、みすず書房