「改憲ムード」をはねのけよう
「客観報道主義」と「もっともらしい主張」を排す
          関東学院大学、東つつじヶ丘在住 丸山 重威
  
<新聞産業退職者懇談会「新聞OB」掲載>

 「イザヤベンダサン」の生みの親と言われた評論家・山本七平氏の「『空気』の研究」は、「現代の日本では”空気”はある種の”絶対権威”のように驚くべき力をふるっている。あらゆる論理や主張を超えて、人々を拘束するこの怪物の正体を解明」(文庫本の裏表紙)した、という本だ。つまり、日本人の行動には「空気」というよくわからないものに規制され、支配されて、論理も事実も無視して物事が動いてしまう、という指摘だ。

 最初に単行本として発表されたのは、昭和五十二年(一九七七年)四月、前年には「ロッキード事件」で政界は大揺れとなり、この年の九月には日本赤軍に日航機がハイジャックされ、福田首相が「人命は地球より重い」と、犯人の要求で「同志」を釈放したりしたころだ。文庫本の日下公人氏の解説には、「日本人論の始まりになった」とある。
「『空気』の研究」は、資料やデータに明らかなものでも、なかなか口に出せない問題がある例として、公害問題や原子力問題の例が引かれている。そんなこともあったからか、当時はさらっと読んで「おかしな議論だ」と、あまり考えなかったのだが、昨年九月の選挙以来、この「空気」「ムード」「雰囲気」を考えなければならないと思うようになった。

 もう一度読み直してみると、そこには、「戦艦大和の出撃」についても、出撃を無謀だと考える人々にはすべて細かいデータや明確な根拠があるのに、出撃を当然とする側にはそういうデータは全くなく、その正当性の根拠はもっぱら空気だったこと、「陸軍の総攻撃に呼応し、敵上陸地点に切り込み、ノシ上げて陸兵になるところまでお考えいただきたい」「それならば何をかいわんや、よく了解した」といった会話で「空気」による決定が進められたことも紹介されている。
山本氏が取り上げたのは、当時、必ずしも科学的でもない主張が「公害」とか「原発」とかいうと、正当のように考えられてしまい、自由にものがいえない、ということだった。しかし、それから三十年たって、今度は「構造改革」「規制緩和」「民営化」「自由競争」といった言葉が、日本社会の「空気」を醸成し、「改憲」や「日米同盟」まで、そこにリストアップされてしまっているように思えることが、気になってならないのである。
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昨年九月の「郵政選挙」は、自民党の「戦略的広報」が実って、自民が大勝した。米国の大学で広報学を学んだ世耕弘成議員が幹事長補佐に起用され、米国の選挙では当然のようになっている「コミュニケーション戦略チーム」を立ち上げ、メディアのチェック、候補者などへのアドバイスをはじめ、総合的な対策をきちんと、まさに教科書通り実行した。その結果、マスコミの報道もそれに乗せられ、あまり考えないまま「郵政民営化」や「構造改革」はあたかも当然のような「風潮」「空気」をつくりだした。
続いて出てきたのが、十月末の「自民党新憲法草案」と「米軍再編の日米合意」だ。この二つのニュースはいずれも日本のこれからの進路を決める重大なニュースだが、マスコミの取り上げ方は、結局いずれも不十分。何より、この「草案」や、「合意」について、自らの判断を示すのではなく、ありきたりの「客観報道」に終始してしまったからだ。

 「郵政選挙」では、「注目選挙区」に集中し、「二大政党」「政権交代」に問題を集中させた。しかし、「刺客」が派遣された選挙区で、いくら各党の候補を平等に扱ったところで、「公平」でも「公正」でもないし、「二大政党」と違う政見を掲げる政党を軽視して、「政権の在り方」を議論したことにはならない。「そこにニュースがあるから」は理由にならない。大事なのは、何を選んでどう報じるか、なのだ。世界には、およそ森羅万象、あらゆるできごとが私たちを覆っている。その中で、何を取り上げるか、には、最初から「選択」があるのであり、それが「ジャーナリズム」だが、「郵政選挙」では「新憲法草案」でも、メディアは十分な主体性を持たないまま「世の中の動き」を報じ、結局、つくられた雰囲気に流された。

 「新憲法草案」もそうだった。前に「復古調」「タカ派」的な第一次案が出ているから、それよりまともだと思ってしまい、正面から論じようとしない。
「新憲法草案」ということ自体、「憲法改正」ではないのだから、改正手続きでそんなことができるのか、ということから問題なのに、「護憲派」のはずの朝日も毎日も、社説で草案自体への賛否は明らかにせず、朝日は「9条を改め、再び『軍』を持つ憲法にしたいというならそれだけ説得力のある論拠を示す必要がある」、毎日は「新憲法を制定しようとするからには、なぜ必要なのかの理由が欠かせないのに、全文草案にそれがない」。いずれも、「国民を納得させなければならない」という主張に終始した。

これに対して「改憲派」は、ターゲットを絞っている。つまり「世論形成」「雰囲気作り」だ。読売は「あるべき国家像を詰め、新しい時代を開く改憲案をまとめることが次の喫緊の課題」と述べ、民主党に「憲法問題でも大いに競い合ってほしい」と注文を付け、地方紙の中の「改憲派」北国新聞も、「自民、民主両党が改憲で『共通軸』をつくることが不可欠であり、そうやって国民の改憲機運を高めていくことが大事」と明確に述べ、ムード作りを励ましている。この状況は地方紙のいくつかが「社説」「論説」として取り上げた共同の「論説資料」も同様だ。ここでは、民主党の方針を指摘して、「戦後六十年の節目に憲法は改正に向けて一歩を踏み出した」と評価、「国会での護憲勢力はいまや少数となった」「現在では自衛隊の存在は広く国民に認知されており『戦力不保持』との乖離を放置し続けることは好ましくない」と、「改憲は当然」のムードを作り始めている。
「米軍再編」に及んでは、問題をすべて「基地の自治体」に返し、「日米同盟の意味」も「軍事一体化」もあまり論じられなかった。
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民主政治が行われていれば、この「ムード」や「雰囲気」は、「論理」や「事実」、それに国民の「願い」や「要求」と一体化し、「世論」となって、政治を動かし、その改善や改革にいい影響を与える。しかし、残念ながらそのメカニズムは、政治宣伝や情報戦争など、本来の国民の思いを歪めるために使われてきたことのほうが目立っている。しかも、この「世の中の雰囲気」と「メディアの報道」は、ニワトリとタマゴの関係のようでもあるから、問題はそう簡単でない。

 「改憲ムード」は、「自衛隊が憲法に書かれていないのは気持ちが悪い」という「素朴な感覚」に寄りかかり、「どう見たって自衛隊は『戦力』だよな」というこれまた「正常な感覚」におもねっている。しかし、状況は違う。政府の公式見解によれば、自衛隊は憲法で禁止された「戦力」に至っていないし、そのための「歯止め」が「集団的自衛権の否認」や「海外派兵の禁止」や「専守防衛」であり、だから、イラクに行っても「交戦権」を禁止した憲法九条第二項がある以上、米国と一緒に何でもやるわけにはいかない。そして逆に「米軍と一体になって戦争をする」ためには、どうしても改憲が必要なのだ。

東大の藤原帰一氏は、朝日「私の視点」への寄稿で、「平和の時代へ『理想主義』を超えよう」と書き、「憲法九条と絶対平和主義が展望を開くとも考えない」と切り捨てた。しかし、そうだろうか。藤原氏がいう通り、「イスラム急進主義」や「米国流保守主義」が、「理想」を求めて突っ走っている「核時代」には、「非武装」こそがもっとも「現実的」な思想ではないのだろうか。
問題は「改憲勢力」だけではない。こうした一見もっともな主張や、「世界の常識」なるものが、きちんとした論理や、世界中に広がっている「九条支持」の声を見ないで、ただ「改憲ムード」を広げている。
私たちの時代に、「日本は、いつの間にか、戦争ができる国になっていた」ということを繰り返させてはいけない。 (了)