自分(たち)の言葉で<平和>を語り広げる
T.R (深大寺東町在住)

 <「法と民主主義」 2007年1月号(415号)所載>

私は東京の調布市に住んでいます。

 「調布・子どもと教育を考える市民会議」「憲法『九条の会』調布のひろば」のひとりとして、仲間たちと活動を続けています。どちらも、一市民同士が対等に、主体的に、教育や暮らしについて考えあい行動してきています。

 つながりあいたいと願いながらも、市民運動にはさまざまな壁が存在します。支持政党の違いからくるお互いへの偏見や先入観、不信感。組織嫌い。無関心。「運動」への嫌悪感。「好きだからやってるんでしょ」(うーん)、「ご苦労さまです」(奉仕活動だっけ?)、という自分には関係ないという態度。などなど。

 結局、<顔を合わせ、話す>。これしかないよね、というのが仲間たちとのひとつの結論です。話をする自分を鍛えるしかないのです。おきまりの言葉に頼って、その中身を問い直すことを怠り、思考停止に陥っていないか。自分の価値観をどこかで絶対化して相手に押し付けてしまっていないか。それが問われます。相手の論理を知ること。それは同時に自分の論理を知ることであり、自分たちの中にある矛盾や弱さに気づくことであるとも思います。共感しあえる、一致しあえる論点を見つけるところからしか相手との通路は見出せないのかもしれません。

 また、市民同士が学びあうときに必要になるのは、聞きかじりのあいまいな知識や情報ではなく、資料・史料に裏付けられた科学的な事実認識です。「戦争をしない国 日本」のような、貴重な映像や資料がそこにあれば、大事な材料になります。互いの歴史観や世界観を出し合い、自分たちが直面している生活の問題と切り結びながら「平和」を語り合いたいと思います。学習会などで、少しずつ区切って立ち止まりながら話し合う、といった活用の仕方がふさわしいと感じました。膨大な内容が急ぎ足で展開されていますから、一度で観て終わり、というのは難しいのではないでしょうか。

 ひとつ気になったのは、常に「国民」は善で「政府」「アメリカ」が悪であるかのように、わりあい単純な二項対立的に描かれていたことでした。ナレーションが、「ひどい」とか「とんでもない」といった形容詞を使っていることも残念でした。淡々と、必要最低限の説明の言葉を添えてくれるほうが、説得力が増すのではないでしょうか。映像や資料の選択と配列にすでに送り手の価値判断が示されているはずです。どう思うかは受け手に任せてほしい。受け手の幅を狭め、広げようとする際の足かせになってしまう可能性に十分過ぎるほど注意しなければならないのは、映画もまた同じなのではないかと思うわけです。

 今は厳しい状況だけれど、日本国憲法を読みあい、あるいは映像を鑑賞しあい、生活に照らし合わせながら、政治や世界の状況などを語り合えるよいチャンスでもあると思います。こんなときだからこそ丁寧に、きめの細かい活動をして、ユニークで柔軟な取り組みを展開していこうと仲間たちと話し合っているところです。自分の、自分たちの言葉で語る、それを大切な課題にして。