'05年12・3集会の台本
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調布「憲法ひろば」 誕生から1年

2005年12月3日の「ピース・メッセージ」台本
 

*(アナウンス) ただ今から、調布「憲法ひろば」による、「みんなの声 響かせて」を始めます。

はじめに

*(アナウンス) 「はじめに」、富永りか

 (富永) こんにちは。深大寺東町の富永りかです。今日はお忙しいところを ありがとうございます。
  まずは資料の説明をさせていただきます。ビニール袋の中に、今日のプログラム、一番最近に出されたニュース、「ねがい」の楽譜、そして私も一言カードが入っています。それから、それ以外に、今日の上映会の実行委員会が、映画を観ていただく方に配るものとして、ホチキス止めになっているものがあります。その中に、調布「憲法ひろば」でお待ちしています、というのと、昨年の集会のおりに出された「憲法ひろば」のアピールが入っています。それらを少し見ながら聞いていただければ、と思います。

 今日初めて「憲法ひろば」に来てくださった方もいらっしゃると思いますので、少し説明をさせていただきます。
  昨年の12月8日に、ここくすのきホールにて、「憲法『九条の会』の呼びかけにこたえてin調布」という集会をもちました。480名もの方々が参加してくださいました。そしてその集会の最後にアピールが読まれ、憲法「九条の会」調布のひろば、略称、調布「憲法ひろば」が発足したのです。

 その後、事務局と世話人会とをおいて、次の2月からほぼ毎月、例会をもってきました。その内容は、この「調布『憲法ひろば』でお待ちしています」という紙に書いてあります。詳しくはそれを読んでいただきたいのですが、九条の会の高田健さん、ジャーナリストの斎藤貴男さん、高文研の梅田正己さん、九条の会の事務局の川村俊夫さんなどのゲストもお迎えしましたが、調布在住の方々のお話しもたくさんうかがいました。そして、ただお話しをうかがう、というだけではなく、なるべく市民同士の声を聞き合いたいね、ということで、小さいグループにわかれて話し合いをしたり、夏には前代未聞の合宿もしました。大野さん、という事務局長をやってくださっている方は、とにかくスケールが大きくて、合宿も、当初、200人参加を考えていらしたようですが、ま、そういうわけにはいかず、38人の参加、ということにはなりました。でも、そういう機会だからこそできるような話しもできて、楽しい合宿でした。

 「ひろば」には、代表もおかず、会費もありません。来ていただいたときに会場費や連絡費、資料代などを分担していただくために300円をいただいています。
  「ひろば」ってどんな団体なの、と聞かれると、みんな困ってしまうんですね。団体、なのかなあ、いや、団体として例会を持っているよねえ、いや、でも団体だったら代表くらいいるよねえ、とそんな感じです。それがいいかどうかはわかりませんが、今のところ、世話人会や例会を通じて、あるいはこうした集会を通じて、みなさんのご意見をうかがいながら、いろんな方や意見や提案が活発に集るようなそんな場所にしていきたいとみんなが思っているようです。そして、そこから小さなグループが生まれて、またそれを例会で報告してくれたりするような、そんな文字通りの「ひろば」になっていったら面白いし、平和を願う市民の大きな交流の場所にしていきたいと私も思っています。

 このあと、みんなの声 響かせて というコーナーに移っていくのですが、これは、昨年の集会に寄せられた「私も一言カード」に書かれたものを、代読させていただく、という企画です。80名もの方々が、ご感想やご意見を寄せてくださいました。どのカードにも、その方の思いがたくさんつまっていました。
  この声を、私たちは、もう一度、みなさんに伝え返したい。そう思ったのです。書いた方ご本人しか、その内容を知らないのでは、あまりにもったいない。それほど、さまざまなことが、その方のことばで語られていたのです。

 ただ、すべてを読み上げるわけにはいかないので、その中から、みなさんの声を代表していると思われるものを選ばせていただきました。そして、確認がとれた方のものには、お名前を入れさせていただきました。
  大事なことがたくさん書かれていると思います。昨年の集会の財産として、というより、私たちが今こそ大事にしたい市民の声としてご紹介させていただきたいのです。

 自民党の新憲法案の前文を読んで、愕然としました。夢も希望もない文章だなあ、と思いました。もちろん、怒りも感じました。「日本国民は、帰属する国や社会を愛情と責任感と気概をもって自ら支え守る責務を共有し」とあります。私たち、そういうものを共有したいんでしょうか。そして、自分から進んで国や社会を支え守らなくてはならない、というのを共有する、ということになると、お互いに監視しあうことになるんでしょうか。ほら、お前はやってないよ、と目を光らせなくてはならないんでしょうか。
  ぞっとしました。
  私は、このひろばの一年を通して、市民同士の人間的な魅力の発見がたくさんあって、とても嬉しかったんです。そして、それは自分では気がつかないけれど、信頼関係が豊かになっていくことで、自分もまたそういう魅力の発見ができる自分になっているんだなあ、と思っているんです。
  そういう市民同士でいたい。そして、互いに助け合ったり、励ましあったり、代わり合ったりしながら、離れていてもつながっていると思えるような関係が築けたらいいと思うし、それこそが豊かさだなあ、と思ったりもするのです。
  自民党新憲法案は、「日本国民は、」と書き出してはいながら、実はその前に「権力者は命令する」「日本国民は」と続いていくような前文です。
  現行の日本国憲法の前文と、ぜひ読みくらべてみてください。
  私たちは、そんな命令されて従うような国民であっていいのか。市民同士が監視しあうような社会になってもいいのか。そんなことも問われていると思うのです。

 そういうことを考えるにあたっても、みんなの声は、とても大事に響いてくると信じています。どうかみなさん、短い時間ですが、みんなの声を聞いてください。

 ――川上、津田、三宅、青木、石山、石川、長尾、の順で、上手に向かう。

みんなの声ひびかせて

*(アナウンス) みんなの声ひびかせて

 (長尾) 小生78歳。兄の戦死など、戦争の悲惨さは筆舌に尽くせないものです。平和憲法ができた時、どんなに前途に希望を感じたかをはっきり覚えております。憲法、教育基本法を改悪することは私の人生を無意味にし、日本という国の存在理由を破壊することです。  増沢喜千郎

 (三宅) 自衛権といっても、「備えあれば憂いなし」の次にくるのは「攻撃に勝る防御なし」「先んずれば人を制す」だと思います。でも、外交もあまりにだらしなくて残念です。国連の常任理事国になるとかならないとかは、小泉首相の独り決めでできるものでしょうか。あんな危険な人が高い支持率を続ける理由が分かりません。  高橋優子

 (石山) 改憲を言い立てる人へ。憲法前文と九条のどこが悪いのか言ってください。国際貢献は平和憲法を世界に広めること。話し合いのどこが悪いか言ってください。前文や九条を変えようと言う人は、戦争の怖さを知りもしないで難癖つける。人々に戦争の怖さを無理やりおきざりにさせる動きを止めよう。  伊東誠

 (津田) 私は太平洋戦争が始まったとき10歳でした。東京下町での空襲も経験しました。戦後民主主義に育てられた私たちは、日本国憲法と共に歩んできました。父親たちが戦争阻止できなかった時代からみれば、今は正々堂々と戦争反対が主張し行動できます。教育基本法も載せられている日本国憲法の本を持ち歩き、いつでも話題にできるようにしております。「アイ・ラブ・ケンポー」を合言葉に、共にがんばっていきましょう。  荒井秀男

 (長尾) 憲法は恋人。僕たち戦争世代は、この憲法に生きる希望を見た。一生懸命暗記した。今、破壊しようとする悪魔が姿を現してきた。全力をあげて守りたい。地域から、街から、うねりを巻き起こそう。 飯野俊夫

 (石川) 世界から一日も早く戦争をなくしてほしいと願うものです。私は小学3年生が終戦でした。父親が海軍で小学1年生のとき出征、ビルマで戦死です。母親は私を頭に4人の子どもをかかえ、貧乏な生活を致しました。好きな勉強もできず、中学卒業し、就職。戦争のせいだといつも戦争を憎み、平和でなければ、安心して老後も暮らせません。可愛い孫のためにも九条を守っていかなければ。カーテンをおろすまで! 決意しました。

 (三宅) 今でも飛行機の爆音やサイレンにドキッとしておびえることが度々あります。1941年12月8日は、入学前でした。
  戦争は拡大していき、大人たちは興奮していたが、私にはまだどんなことなのか理解できていませんでした。勝った勝ったまた勝ったの掛け声のなかで、どんどん我々は追い詰められていきました。空襲が頻繁になり疎開。疎開地も安心はできない。食料は乏しくなる。子どもも身を粉にして家事労働に励まねば一家の生活がまかなえない。そうこうしているうちに家は焼けました。疎開地からもとの家に帰るすべを失いました。
  敗戦のとき、四年生でした。敗戦の日、今夜から明るい夜が送れるのか、警戒警報や空襲警報のサイレンで眠りを妨げられ防空壕に入らなくてすみそうだということでほっとしました。
  戦争が始まったすぐの日、おばと母との会話を聞きました。「この戦争、よう勝てませんよ」、こんな会話がはっきり耳に残っていましたが、それを戦争が終わるまで口外することもできませんでした。当然ですが、それがどんな結果を生むか分かっていたからです。
  その後の生活、荒廃した生活の立て直し、必死で親子ともども苦労の連続でした。それから60年、気がついてみればこんな時代を迎えています。経済成長の中で踊って歌って、平和ぼけだったのかな、と、痛い思いの中にいます。一貫して平和を願って生きてきたのは確かなのだけど、、、。
  若い人たちの話が聞けて今日は良かった。対話のありかた、教えられました。平和憲法を世界中に拡げたいですね。

 (石川) 私は高校生の時、良い先生に出会い、青春時代を過ごしました。憲法前文から9条、24条25条などなど、、、。大切な条文を丁寧に教わり、そのすばらしい憲法を今でも誇りに思います。 村上千代子

 (青木) 私の生まれたのは東京大空襲の3月、東京です。小学生の時から瞳のように憲法を大切にする教育を受けてきました。それが今年の3月、君が代を立って歌わないと仕事が続けられなくなる状況になり、口はへの字に結んで、心ならずも立ちました。無念です。

 (石山) 毎年卒業式の舞台上には、卒業していく6年生を祝う気持ちをこめて在校生が製作した共同作品が装飾されてきました。今年、教育委員会は、舞台上の一切の装飾をしないようにと言ってきました。国旗、市旗に注目させるためだそうです。職場で子どもの気持ちを大切にしてきた教師たちの思いは届きません。憲法が変わる前から、実態はどんどん変えられています。

 (津田) 戦争が生むものは、ただの悲しみだけだと僕は思う。  青山智宏、中学生

 (長尾) ぼくは調布市民ではないのですが、今日の集会に参加してとても胸があつくなりました。大学で、憲法改正を許さない運動を繰り広げていきたいし、そのための勇気を今日はからだいっぱいに吸収することができたので、一歩一歩強い意志をもって前進していく構えです。これからも共にがんばっていきましょう。  宇野健治

 (川上) 早稲田大学の学生です。現在、大学でも九条を守る運動を少しずつ開始しています。運動を作り出すことの大変さを実感している今日このごろですが、今日この集会に参加して、様々な立場や世代の人びとが同じように九条を守るための運動を作り出そうとしていることがわかり、励まされました。共にがんばりましょう。  丸山ななこ

 (津田) 私は校庭で子どもの歓声を聞く時に、また休日、青空の下でのんびり息をする時に、「イラク戦争やめて」と思わずにはいられません。この願い実現のために、調布市民、世界市民と連帯しなくては、と思っています。  小学校職員

 (石川) 私はこの問題については、国民、市民の大討論会が必要だと思います。憲法改正賛成、反対、中間も含めて議論をつくした上での国民の選択であれば、だれもがある程度納得できると思います。日本の戦後責任からはじまって、いろいろな問題を再度検証する時期にきていると思います。そういう検証なしに、なしくずしに戦争の道は反対です。
  九条の問題は、まず九条ありき、ではなく、基本的人権、男女平等、子どもの人権、世界の経済、日本の経済的自立、いろいろな角度から実証的に検証して、改正賛成派の市民と議論をしていく必要があると思います。そういう憲法のひろばになるといいと思います。  今村ひろみ

 (石山) 1889年に大日本帝国憲法が制定されてから1945年の敗戦までと、日本国憲法施行から現在まで、ほぼ同じ年月が経っています。両方を較べると天と地の差です。戦後どこの国も侵略せず、ひとりの人も戦争で殺さなかったのは、第九条があったからです。憲法や戦争、原爆のことなど知らない人間が多くなっているなかで、もう、九条を守る、ではなく、九条を広めていくというふうに発想の転換が求められていると思います。  長尾敏博

 (川上) 20代の頃、東南アジアで働いていて、12月8日がくるたびに、毎年まわりが真珠湾攻撃のことを日本人の私に問いかけてくるということがありました。皮肉なことですが、帰国して以来、この日を意識したのは久しぶりです。
  独身だった自分も今は二児の母。そして現在おなかの中に8カ月の子どもが元気に動いています。

 (青木) 戦後生まれの私たちは、体験はしていませんが、毎日マスコミを通して戦争の悲惨さ等などを目の当たりにしています。「自分が生きている間は大丈夫」なんて楽観している時ではないと改めて実感しました。
  私は昭島市民ですが、調布市民の方々のように、昭島市でも何かしなくてはと思います。とりあえず会う人ごとに現状を伝え、一人でも多くの方が意識改革するよう話し合ってゆくつもりです。  馬場秋代

 (三宅) 私は公務員です。都からの相次ぐ改悪で、多忙に、かつ非人間的に、少しずつ変化してきている日々にうんざりして毎日を過ごしています。なかなか変えられない職場に比べ、ここは何と明るい夢のあるやすらぎ合える場なのでしょう。ひとりひとりを大切にすれば、世の中は平和になるのです。みんなの力がもっともっと大きく育って、大きな流れにしていきたいという思いでいっぱいです。

 ――三宅さんが、後ろの人たちをうながし、みな一列に並び礼をする。そして、後ろに下がる。

今日の日によせて

*(アナウンス) 今日の日によせて。詩とことば

 ――川上さん、上手のマイクの前に。

 (川上) トルコの詩人ヒクメットは、原爆で死んだひとりの少女にかわって、次のような静かな苦悩の詩を書いた。

ナジム・ヒクメット「死んだ女の子」 飯塚 広 訳

1、とびらをたたくのはあたし
   あなたのむねにひびくでしょう
   小さな声がきこえるでしょう
   あたしの姿はみえないの

2、十年前の夏の朝
   あたしはヒロシマで死んだ
   そのまま六つの女の子
   いつまでたっても六つなの

3、あたしの髪に火がついて
   目と手がやけてしまったの
   あたしは冷たい灰になり
   風でとおくへとびちった

4、あたしは何にもいらないの
   誰にもだいてもらえないの
   紙切れのようにもえた子は
   おいしいお菓子も食べられない

5、とびらをたたくのはあたし
   みんなが笑って暮せるよう
   おいしいお菓子を食べられるよう
   署名をどうぞして下さい

 ――浅野さん、客席から話しながら登場

 (浅野) とびらをたたかれているのは、今、ここにいる私たちなんですよね。60年まえの子どもたちから、今この時を戦火の中に生きる子どもたちから。そして、競争に追い詰められる現実を生きている子どもたちの、小さな声が聞こえているんでしょうか。その声が心に響き続けているんでしょうか。

 (川上) 私たちは、今こそ、ひとりひとりの手が温かいことを、その手が涙をふいたこともある手であることを思い出したいですね。そしてあなたの笑顔が、わたしの笑顔が曇らないことを願い、祈ってくれている人たちが、この土の下に眠っていることを忘れないでいたいです。

 ――川上さん、後ろに下がる。

 (浅野) 富士見町の浅野智子です。ひとつの詩を読みます。

大きな木  富永りか  

 私たちの住んでいる この街には
  一本の大きな木がある
  それは 私たちのおばあさんやおじいさんが愛し
  私たちのおとうさんやおかあさんが大切に語り継いで
  今も その木の下で
  子どもたちが遊んでいる

 木の下には風が流れ
  夏には格好の木陰もできる
  冬にはそこが虫たちの寝所になり
  土はあたたかく 木は 春のために力を蓄える

 まっすぐで大きな木の下で
  ときには 風がそこに止まることがある
  行き場のない苦しげな様子を
  下葉たちが見守っていることもある

 まっすぐで大きな木は
  根を大きくのばしているから
  たとえ伐られても 
  土の中では もうすでに
  生き続けることが約束されている

 木の肌に
  頬をあてると
  空と土をつなぐ水脈の音が聴こえてくる

 真っすぐで大きな木は
  ひとりですくっと
  すべてをつないで すべてにつながって
  四季を生きている」

 ――浅野さん、川上さんが並んで礼をし、袖にむかって手をあげる。

 ――子どもたちが出てくる。浅野さんと川上さんが握手をして迎える。浅野さんと川上さんは、少し下がる。そして、それぞれのマイクの前に行き、川上喜朗さんが一歩前に出てマイクの前に。

 (川上) 川上喜朗です。六年生です。広島の原爆で亡くなった人の子どもが書いた詩を読みます。

おとうちゃん     かきたよしこ

  にぎやかな広島の町
   そこで死んだ、おとうちゃん
   げんばくの雲に乗っていった、おとうちゃん
   おしろのとこで死んだ、おとうちゃん
   わたしの小さいとき別れた、おとうちゃん
   一度でもいい、
   夢にでもあってみたい、おとうちゃん
   おとうちゃんとよんでみたい、さばってみたい(だきつきたいの意味)

  戦争がなかったら、
   おとうちゃんは死ななかっただろう
   もとのおうちにいるだろう
   にいちゃんのほしがる自転車も
   かってあるだろう」

  ぼくは、五年生のとき「はだしのゲン」という漫画を読みました。そこには、原爆の被害にあった人の苦しみとそれでも前向きに生きているゲンの姿がかかれていて、とても感動しました。それからぼくは戦争についていろんな本を読んで平和について、考えるようになりました。
  そして今年、ぼくは広島に行きました。原爆ドームや記録がたくさん残っていて、歴史を伝え続けている人がたくさんいることにも驚きました。
  さっき紹介した詩をかいた小学生も、もし戦争がなかったら、いまのぼくと同じように家族みんなで暮らしていただろうと思います。
  戦争を二度と繰り返さないためにぼくは一人でも多くの人にはだしのゲンの話や平和の大切さを話していきたいと思っています。

 ――川上くん、一歩下がり、富永さんマイクの前に。

  (富永) 富永芽衣です。六年生です。広島の原爆を幼いときに体験した女の子が、小学校三年になってから書いた詩と、そして、私が今年の夏に考えた詩を読みます。

無題  小学三年 峠 千歳

 げんしばくだん
  おちました
  そらのうえから
  おちてきた
  おとうさん おかあさん
  しんでしまった
    げんしばくだんが
    おちました
    ふくやとえきだけ
    のこっていました。
    こどもたちは
    学校からかえってみたら
    いえやなんかが
    なくなっていた。
    おかあさんも
    おとうさんも
    しんでしまいました
    おかあさん
    おとうさん
    なくなった」

戦争をしてはいけない 富永芽衣

 戦争をしてはいけない
  日本はもう戦争はしない
  六十年前の人々はかたくそう誓った
  しかし今 人々は戦争の恐怖を忘れつつある
  戦争がかっこいいと言う男の子が出る始末だ

 大人で 憲法九条を変え 武器を持とうという人がいる
  確かに 身を守るために持とうという気持ちはわかる
  しかし 初めは身を守るためだけだったが
  いつか
  武器があるのだからと
  戦争を始める人もいるだろう
  戦争では きょうふ にくしみ うらみ かなしみだけしか生まれない
  何千 何万という人を殺しておいて何かを得たら
  それは幸せなのだろうか
  戦争に傷ついた人たち 心に深い傷を負った人たちを治せるものなんてないだろう
  大人も子どもも笑わない 死の国のような場所のために 命を落とす必要はない

 憲法九条は変えてはいけない
  戦争なんて この世から 消し去ろう」

 ――子どもたち並んで礼をし、少し後ろに下がる。堀尾さん拍手をしながら登場。富永芽衣さんのマイクで


  (堀尾) 若葉町の堀尾輝久です。

  ――市民の声、子どもたちのメッセージを受けとめての感想と、私たちが課題にすべき現実の問題について、「ねがい」の説明など五分。(この時の時間次第で、もうちょっと増えても。)

 ――ギターをひく富永信哉さんです、と紹介し、富永信哉さんは上手から、ギターと椅子をもって登場。

 ――ギターの前奏が始まる。堀尾さん、会場に、どうぞご一緒に、と呼びかけて、「ねがい」の一番を独唱。そして、また前奏が始まり、袖にいる人や、受付などをやった人など、舞台に出られる人は出て、みんなで「ねがい」を一番から四番まで歌う。

おわりに

*(アナウンス)「おわりに」、大野哲夫 

 ――大野さん、袖近くのマイクの前で。五分程度。

 (大野) 菊野台の大野哲夫です。

 ――これからについて。いろいろな企画を通じて輪を拡げ、学び合い、考え合いながら、力強いひろばにしていきたいこと。大きく輪を拡げていくためにも、ニュースを読んでもらう人をふやしたいこと。ニュースを送ってもよい、という方は、今日のカードにアドレスやファックス番号、あるいは住所と電話番号などを記入してもらいたいこと。(カードの回収方法も)うちには何部おいてくれていい、という人、などなどの申し出をぜひしていただければ。

 ――さしあたっての例会予定などを。12月23日。1月22日。

*(アナウンス) これで、調布「憲法ひろば」、「みんなの声響かせて」を終了させていただきます。