「第九条幣原発案説」を考えよう
ポイントは「戦力不保持」
          関東学院大学、東つつじヶ丘在住 丸山 重威

 <2005年3月3日『新聞OB』239号から転載>
 幣原喜重郎という政治家がいた。

 いうまでもなく、大正の末期から満州事変前まで五つの内閣で外相を務めた外交官で、戦後、内閣総理大臣をした人物だ。外相時代には「幣原外交」とよばれる国際協調外交を展開したが、軍部の攻撃で引退。戦後、首相に担ぎ出され、日本国憲法起草に立ち会うことになった。七カ月半ほどで、首相を退き、衆院議長だった一九五一年、突然死去した。

 憲法改正論が広がってくる中で、どうしても紹介しておきたいのが、この幣原元首相と憲法九条の関係。つまり、「憲法第九条は幣原元首相の発案だ」という話である。

 ずっと以前、共同入社直後に読んだ「記者読本 −ニュースのうらおもて」(木下健二編)に、この「戦争放棄条項幣原発案説」を報道したのが共同通信だったことが載っていた。それ以来、ずっと気になってきていたのだが、最近、元文藝春秋の堤堯さんが「昭和の三傑」(集英社インタナショナル)で取り上げているのを読んで、大変共感を覚えた。

 間違いない。憲法第九条の発案者、特に、「戦力不保持」をうたう第二項の発案者は幣原さんだと思う。

 「日本国憲法は米国の押しつけだ」―そういう議論の中で、「九条改正、集団的自衛権容認」の「押しつけ圧力」がまた米国から迫ってきている。憲法九条を生んだ精神をたどり、そこに確信を持つことは、いま、とても重要なのだ、と思っている。

       

 「象徴天皇と戦争放棄 幣原元首相の発意 平野三郎氏が新資料」という報道があったのは、一九六四年一月二十二日だったそうだ。平野三郎氏は幣原元首相の秘書官だった人で、後に衆院議員を務めた。その平野氏が、幣原さんから直接聞いた話をメモした「平野メモ」があることを共同政治部がスクープしたのだそうだ。

 前述の「記者読本」によると、この年の「ジュリスト」一月一日号の座談会で、憲法調査会の高柳賢三会長(東大教授)が、このメモに言及しており、これを知った記者が平野氏を説得し、二十部あったタイプ原稿のメモを入手し、記事にした、という。メモは憲法調査会に提出され「資料」としていまに残った。

 この記事では、@幣原氏は「象徴天皇」が本来の姿と考え、「人間天皇」もマッカーサーに提案したA「戦争放棄」は戦争と平和について真剣に考えた結果、昭和二十一年一月二十四日、マッカーサーに提案したB「戦争放棄」条項については、最初マッカーサーも悩んだが、幣原氏の力説の結果、同意した―と紹介。「幣原先生から口止めされていたので公表を控えていたが、国民が直面する価値判断のためにも、正しい事実と先生の真意を明らかにする必要を感じ公表することにした」という平野氏の談話が付けられている。

  実は、この話、マッカーサー元帥が、退任後、米議会で「憲法第九条は幣原元首相の発案」と証言、回顧録にも書いていることが知られており、この「平野メモ」は、日本側の有力な資料として、評価されたという。

 ところが、いつごろからか、「戦争放棄はマッカーサーの押しつけ」との説が広まった。

 「マッカーサーと関係が深い一九三五年のフィリピン憲法に戦争放棄条項がある」「幣原の長男、道太郎氏は、幣原自身の著書『外交50年』=原書房=の『解説』で、幣原発案説はウソと否定している」「ケーディスも『みんなが考えていた』と言っている」「証言はマッカーサーが責任転嫁したものだ」などという意見が増えてきたのだ。

 「改憲派」だけではない。古関彰一氏の「新憲法の誕生」も「九条の発案者がマッカーサーであり、幣原でないことは疑う余地がないように思える」と書いている。

      

 だが、本当にそうだったろうか。

 確かに、証拠、証拠、と詰めていくとき、「第九条の発案者が誰か」は、依然として「ナゾ」なのかもしれない。しかし、私は当時の社会と人々の気持ち、そして何より、外交官・幣原喜重郎の生き方や思想を考えれば考えるほど、第九条の発案者は幣原だと思う。そして、仮に百歩譲って、「ほかにも、発案者がいる」のだとしても、あの「平野メモ」と「マッカーサー証言」を「作り話」だとする理解は、間違っていると思う。

  前述の「昭和の三傑」で堤氏は、「外交五十年」の道太郎氏の「解説」について、「父親の本文を躍起となって打ち消している」のは「奇観というしかない」と述べ、「(その文には)父・喜重郎から『戦争放棄条項』についてジカに聞いた話はない。親子ならただ一言、『あれはオレの発案じゃない』と聞けなかったものか」と皮肉っている。

 そして堤氏は、「外交五十年」から、幣原元首相自身の言葉を引く。

 「これは何とかして、あの野に叫ぶ国民の意思を実現すべく努めなくちゃいかんと、堅く決心した。それで、憲法の中に、未来永劫そのような戦争をしないようにし、政治のやり方を変えることにした。つまり戦争を放棄し、軍備を全廃して、どこまでも民主主義に徹しなければならんということは、他の人は知らんが、私に関する限り、前に述べた信念からであった」

 「よくアメリカの人が日本へやってきて、今度の新憲法というものは、日本人の意思に反して、総司令部のほうから迫られたんじゃありませんかと聞かれるのだが、あれは私に関する限りそうじゃない。決して誰からも強いられたんじゃないのである」

       

 今回、特に私が強調したいのは、この「発案」が、九条一項の「戦争の放棄」ではなく二項の「戦力の不保持」であることだ。確かに、九条一項は、一九二八年の不戦条約以来の思想だが、そこに「非武装」の思想はなかった。「戦力不保持」をうたった九条二項は、カントの「永遠平和にために」は別として、日本国憲法に初めて登場する条文だ。

 幣原喜重郎という人は、決して単純な平和主義者ではなく、外交で日本を輝かせようとした人だ。しかし、対米協調は世に容れられず、いったん表舞台から去った。首相に復帰したとき、国際情勢の把握は、当時の閣僚の誰よりも詳しかったはずだ。極東委員会と米国、マッカーサーとの関係、諸外国の天皇戦犯論、始まりつつある東西対立と核兵器の開発、旧体制を維持しようと憲法起草に取り組む松本烝治国務相、ぶつかりあう新旧勢力、疲弊しきった国民の平和を求める心情…。その中で、「やっぱりこれしかない」と幣原さんが選んだのが、「戦争放棄・非武装」の条項ではなかったか。

 「みなさんはけっして心ぼそく思うことはありません。日本は正しいことをほかの国よりさきに行ったのです。世の中に、正しいことぐらい強いものはありません」という「あたらしい憲法のはなし」の言葉は、幣原自身の思想そのものといってもいい。

 平野三郎氏のメモとマッカーサーの発言をいずれも孫引きだが、掲げておく。改めて読んでみると、新憲法の時代とそのころの精神が蘇ってくる。

 ついでに書けば、堤さんの本の後書きによれば、元首相の孫、幣原廣さんは「堤さんがお書きになった、あれでよいと思いますよ」と言っているそうである。

【資料】

「平野三郎氏の文書」

 ○平野:第9条は占領下の暫定的な規定か。

 ○幣原:そうではない。一時的なものではなく、長い間考えた末の最終的な結論だ。

 ○平野:丸裸のところへ攻められたらどうする。

 ○幣原:一口で言えば「市中に活」だ。確かに今までの常識ではおかしいが、原子爆弾ができた以上、世界の事情は根本的に変わった。それは今後さらに発達し、次の戦争は短時間のうちに交戦国の大小の都市が灰燼に帰すだろう。

 そうなれば世界は真剣に戦争をやめることを考えなければならない。戦争をやめるには、武器を持たないことが一番の保証になる。

 ○平野:日本だけがやめても仕様がないのでは?

 ○幣原:世界中がやめなければ本当の平和は実現しない。しかし、実際問題としてそれはできない。すべての国はその主権を捨てて世界政府の下に集まることは空想だろう。しかし、少なくとも各国の交戦権を制限できる集中した武力がなければ世界の平和は保てない。

 二個以上の武力が存在し、その間に争いが発生すると、平和的交渉の背後に武力が控えている以上、結局は武力が行使されるか、威嚇手段として使われる。したがって二個以上の武力間には無限の軍拡競争が展開され、ついに武力衝突を引き起こす。だから、戦争をなくすための基本は武力の統一だ。

 例えば軍縮が達成され、各国の軍備が国内治安を保つに必要な警察力の程度にまで縮小され、国際的に管理された武力が世界警察として存在し、それに反対して結束するいかなる武力の組み合わせよりも、世界警察の方が強力というような世界だ。

 このことは理論的には昔からわかっていたことだが、今まではやれなかった。しかし原子爆弾が出現した以上、いよいよこの理論を現実に移すときが来た。

 ○平野:そのような大問題は、大国どおしが話し合って決めることで、日本のような敗戦国がそんな偉そうなことを言ってみたところでどうにもならないではないか。

 ○幣原:負けた日本だからこそできる。軍拡競争は際限のない悪循環を繰り返す。集団自殺の先陣争いと知りつつも、一歩でも前へ出ずにはいられないネズミの大群と似た光景だ。要するに軍縮は不可能で、可能にする道は一つだけだ。それは、世界が一斉に軍備を廃止すること。もちろん不可能である。ここまで考えを進めてきたとき、第9条が思い浮かんだ。「そうだ。もし誰かが自発的に武器を捨てたとしたら―」。

 非武装宣言は、従来の観念からすれば狂気の沙汰である。しかし武装宣言が正気の沙汰か? それこそ狂気の沙汰というのが結論だ。要するに世界は一人の狂人を必要としている。

 自らかって出て狂人とならない限り、世界は軍拡競争の蟻地獄から抜け出すことができない。これは素晴らしい狂人である。世界史の扉を開く狂人である。その歴史的使命を日本が果たすのだ。

 ○平野:他日、独立した場合、敵が口実を設けて侵略してきたらどうするのか。

 ○幣原:我が国の自衛は、徹頭徹尾「正義の力」でなければならないと思う。その正義とは、日本だけの主観的な独断ではなく、世界の公平な世論に裏打ちされたものでなければならない。そうした世論が国際的に形成されるように必ずなる。なぜなら、世界の秩序を維持する必要があるからだ。

 ある国が日本を侵略しようとする。それが世界の秩序を破壊する恐れがあるとすれば、それによって脅威を受ける第三国は黙っていない。その第三国は、日本との条約の有無にかかわらず、日本の安全のために必要な努力をするだろう。要するに、これからは世界的な視野に立った外交の力によって我が国の安全を守るべきで、だからこそ「死中に活」があるというわけだ。

  (「幣原先生から聴取した戦争放棄条項等の生まれた事情について−平野三郎氏記」=内閣憲法調査会事務局、一九六四年二月=の抜粋)。

 

「マッカーサー証言」

 幣原首相は「長い間熟慮して、この問題の唯一の解決は、戦争を無くすことだという確信にいたり、ためらいながら軍人のあなたに相談に来ました。なぜならあなたは私の提案を受け入れないと思うからです」「私はいま起草している憲法に、そういう条項を入れる努力をしたい」といった。私は思わず立ち上がり、この老人の両手を握って「最高に建設的な考えの一つだ」「世界はあなたを嘲笑するだろう。その考えを押し通すには大変な道徳的スタミナを要する。最終的には(嘲笑した)彼らは現状を守ることはできないだろうが」。私は彼を励まし、日本人はこの条項を憲法に書き入れた。

(一九五一年五月五日、米議会上院軍事外交合同委員会公聴会でのマッカーサー元帥の証言、幣原平和財団「幣原喜重郎」=一九五五年刊=から)

 

  「マッカーサーのスピーチ」

 首相が来て、国際的手段としての戦争を廃止すべきだと主張した。賛成した私に「世界は私たちを夢想家と嘲笑するだろうが、百年後には予言者と呼ばれるだろう」といった。

遅かれ早かれ、世界は生き延びるためにこの決定をしなければならないが、それはいつか。それを学ぶ前に、われわれはもう一度戦わなければならないのか。(略)先人たちが新世界に出会ったときのように、われわれは新しい考え、新しい思想を持たねばならない。われわれはいまこそ諸大国と協力して戦争廃棄の用意あることを宣言すべきだ。

(一九五五年一月二十六日、米在郷軍人会ロサンジェルス郡評議会主催正餐会での発言)