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憲法「九条の会」の呼びかけに答える 12・8集会in調布 |
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第1場面 進藤 「ところで山本さん、さっきから気になってたんだけどね、胸につけてるのは一体何?」 山本 「ああこれ? これ何の形だかわかる? そうそう箒。これはね、戦争ホーキなのよ。いろんな人がこれを作ってるからいろんな形があるんだけどね、つまりはこれを作ったり身につけたりすることで、戦争反対の意思表示をしよう、という意図なんです。進藤さんも作ってみる?」 進藤 「面白いですよね。今、戦争反対の意思を表したいけどどうしたらいいかわからない、という人もいっぱいいるから、こんな形もあるんだって教えてあげようっと。」 二宮 「戦争といえば、イラクの状況もひどいですよね。ファルージャの子どもたちがどんな思いで今この時を過ごしているかを思うと、いてもたってもいられないですね。私も小さな子どもを持つ親として、何ともやりきれない思いでいるのですけど、一体私に何ができるんだろうって思っちゃう。私は、子どもの予防接種についていろいろと疑問をもって、他のお母さんたちとも考えあったりしているんですけど、じゃあそのお母さんたちと政治の話なんかができるかというと、お互いに警戒しちゃってたりするんですよね。 物事に向き合うって、大変じゃないですか。ただごはん作って、子どもたちをおふろにいれて、寝かして、そして学校のことなんかにも参加して、おけいこごとにも通わせて、なんてことだけだって大変なわけですよね。そこに、何故、とかそれっておかしいよね、とかいうことを考えたり話し合ったりするのは、とってもエネルギーがいりますよね。多くのお父さんたちは仕事が忙しくって、そんな話をする暇もないっていう感じだし。」 高瀬 「二宮さんのおっしゃること、すごくよくわかります。私は今保育園の栄養士をしているんですけど、子どもたちを通じて、お母さんたちの姿もよく見えてきます。例えばですけど、子どもがおっぱいだとかミルクを飲んでるうちはいいんだけど、さて離乳食、ということになるとまったくどうしていいかわからないお母さんたちがいます。中には、親は夜ビールでおつまみつまんだりしていて、ごはんを食べない、炊飯器もない、というお母さん。重湯はどこで売ってるんですか、って聞かれるお母さん。それって、自分が育った家庭にもそういうことに対するヒントはなかったということですよね。お母さんが悪いって言ってるんじゃないんですよ。むしろお母さんたちは追い詰められているんです。でも、そのままだと、子どもの環境としてはいかがなものか、ですよね。 そういう時、私たちは、じゃあ保育園で全部面倒みるからいいわよ、というふうにはしません。お母さんに関わってもらいながら、ここまではお母さんがチャレンジしてみて、その後のここは保育園で担うから、という形で一緒に子どもたちの環境を作っていくことにしています。炊飯器がなくても、例えばコンビニのおにぎりをほぐしてお湯で煮てもおかゆはできるよ、という具合にアドバイスもしています。」 山本 「高瀬さんはすばらしい支援者なんですね。実は私も子どもたちがまっとうに子ども時代を保障されていないと実感しています。いわゆる戦争をしているわけではないけれど、この日本でどれだけの子どもたちにゆったりとした、心から安心できる子ども時代が保障されているのか、と疑問です。以前はそういう視点で幼稚園をやっていたんですけど、3歳からでは間に合わない、と感じました。3歳になるまで一度もおすなばで遊んだことがない子どもがいたりするんです。それは不潔だから、という理由ですよね。 今は親子が同じことをしたり時間を共有することのできるスペースを営んでいるんですけれど、そこでも、イベントみたいなことをやると人は集ってくれるのだけれど、親子で一緒に遊びましょう、といった親子の時間を問い直すようなことにはなかなか人が来てくれません。親子でどう時間を過ごしていいかわからない人は多いです。 そして、個々人で話せば、まあまあつっこんだことも話せるけれど、グループになると、とたんに心を閉ざして、とにかく浮かないように人に合わせていくのでせいいっぱい、という感じのお母さんたちを見ると、なんだか胸が痛みます。 二宮 「多くのお母さんたちは孤独な子育てしてますよね。子育て支援、なんていうかっこいい言葉なんか使ってるくらいなら、まずは父親を家庭に帰せ、っていうことですよね。ほんと、子育てってたいへんなんですから。気持ちの余裕があれば、子どもをいとおしい、と思えるけど、たいへんさを共有できる相手がいなければ、追い詰められますよね。 今は保育園だってなかなか入れないんですよね。条件整備もなしに、家庭教育が大事なんだ、地域なんだ、と言われれば、結局それは母親の肩に全部かかってくるし、何か問題が起これば母親の育て方に問題があった、ということになる。それってちょっとひどくない? って思いますよ。」 進藤 「さっきイラクの子どもたちのことを二宮さんがおっしゃってたけど、本当に、戦争の犠牲になるのはいろんな意味で子どもたち。社会のひずみを一身に受けるのも子どもたち、ということですよね。日本で子どもたちが大事にされているとはとても思えません。 例えば、私の子どもの卒業式での風景が都の教育委員会の通達によって、全く変えられてしまいました。(――ここは丁寧に語ってもらう――) 誰のための卒業式なのか、ということもあるし、それまで培ってきたみんなの文化が、号令一下あっと言う間に壊されてしまうことに、恐怖を覚えましたよね。 憲法が変えられる、ということが言われるけれど、そうは言ってもすぐには何も変わらないのでは、と思ってると思うんですよ。でも、実はそんなことなくて、あの卒業式のように、ある日突然、ガラッと何かが変わっているということってあるんじゃないかと思います。」 二宮 「そうなんですね。どこかで今の生活はずっと続いていくんじゃないか、っていうふうに思っている自分、思おうとしている自分たちがいるような気がします。そういうとこを見つめ直していかないと、ほんとうに、ある日突然え――! っていうことになってしまうんですね。そういうところにつなげるような形で、過去の戦争を体験された方のお話なんかも聞かせていただきたいと、今、思いました。悲惨な体験を語っていただくことは、その傷口をひらいて見せてもらうことで、それはすごく大変なことですよね。でも、その貴重なお話も、今の自分の課題と結び付かない限り、受け止めきれませんものね。」 高瀬 「こんな話をいろんなところでしたいですね。きっとみんなどこかで話したいのだと思いますよ。話していけば、自分につながる何かが見えてくるんですよね。 そう言えば、竹内常一さんって、調布に住んでらっしゃいますよね。一貫して、子どもたちのことを大事にされたご発言をされていますよね。お話ししてみたいですね。」 進藤 「竹内さんなら、さっきあっちのパン屋さんでお見かけしましたよ。呼んでこようか」 「竹内さーーん」 「竹内さん、パンは何がお好きなんですか。クリームパン! かわいい!」 「さっきから、今の子どもたちはぜんぜん大事にされてないよね、っていうような話をしてたんです。管理や競争だって、前よりずっと熾烈なものになっているような気がするんですけど、どう思われますか」 竹内発言 ・・・・・・
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第2場面 富永 「憲法九条の会が出したアピール文、読んでみますね。」 (「九条の会」アピール文を読む) 今西 「あれ、ここにある奥平さんって、うちの近所の奥平さんのことかな。」 三宅 「え? 今西さんご存じなの? お話しをうかがいに行きたいですよね。」 今西 「じゃあ、今、携帯で電話してみますね。」 (電話) 「これからうかがってもよろしいでしょうか」 上手から奥平さん電話の子機をもちながら登場。 「はいはいいいですよ。いらっしゃい、お待ちしてます。」 三宅 「三宅と申します。奥平さんは、九条の会の呼びかけ人のひとりでいらっしゃいますよね。どんな思いで、そういう行動提起をされたのか、ということをぜひうかがいたいんです。九条や、24条の男女平等なども変えられようとしているようですが、実際それが変えられたとしたら、いったいどうなってしまうんでしょうか。 そして、全国で行われている憲法集会に参加されておられますが、全国を回られて、どんなことを感じられているか、お聞かせくださいますか。新聞やテレビでは、ほとんど黙殺されています。」 奥平発言 ・・・・・・ 質問ができれば、チャレンジ。(憲法はもう古いんじゃない、とか、自ら勝ち取ったものじゃないから、という言い方もあるが、という質問ができるといいかも。) 三宅 「やっぱり、憲法は読んでみなくっちゃね。私は大学での授業で、1年を通して、必ず憲法を読むことにしているんですよ。」 今西「私は、漠然と九条は守らなくっちゃ、と思い続けてきましたけど、しっかりと憲法を読んだかと言われると怪しいですね。私たちの憲法、というふうに言うには、ちょっとお粗末ですね。」 (三宅、憲法前文と九条を読む) 今西 「改めて読んでみると、これを何故変えるのか、と思いますね。戦争ができる国にして、いったい誰が得するんでしょう。少なくとも私たち市民ではないですよね。戦後の教育を受けてきた私たちは、戦争はいやだ、戦争には正義はない、と学んできましたよね。 でも、それが当たり前すぎて、どこか平和を創る努力を怠ってきちゃったんでしょうか。私は労働組合に関わって、平和運動にも関わっているけれど、その運動は果たして、自分たちの気持ちや思いや、考え方をきちんと真ん中にすえて進められているかどうか。動員、という形がすべて良くない、とは思いませんが、それが自分たちの頭を思考停止にしてしまっている部分がないかどうかを点検してみなくちゃいけないな、と思っています。 ひとりひとりの生活に根差した感じ方なり考えかたなりをつきあわせていくなかで、これっておかしいよね、という話ができないと、なんだか結局地に足がついていないんじゃないか、どこかで他人事だったりしてきたんじゃないか、なんて考えているところなんです。」 |
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第3場面 浅野 「浅野と申します。今日、ここまでにいろんな発言やらお話やらをうかがっていて、いろんな思いが胸を駆け巡っている、という感じなんです。きっとみなさんがそうではないかと思うんですけど。 憲法九条、これはどうしたって守りたい。そう思っていました。でも、九条を守るってどういうことなんだろう、っていうことですよね。戦争を放棄する、ということは、そんなに簡単なことじゃないんだろうって思うんです。武力でない形で平和を創るためには、私たちに力がないとできないですよね。でも、その力は、どんどん弱くなっていってはいないだろうか、と思ってしまうんです。 政治の話をするにも、とても警戒せざるを得ない。あの人はなんとか党の人よ、とか、あそこはなんとか党の後援会の人の巣窟よ、とか、そういうふうに実際に色分けをする人たちもいます。そして、それを聞いたときに、なんとなく違和感を覚えながら、そういうことは言わないほうがいいよ、とはっきりと言えない自分もいる。いえ、自分もまた、いろんなフィルターを通した目で人を見たり判断してしまっていることも多いと思います。 みんな何をそんなに恐れているんでしょうか。そしてそんなにも人と人とが分断されていく仕組に乗っかっていくことによって、一体誰が得をするんでしょうか。 人と人とのトラブルにも、とても弱くなっているような気がします。だからトラブルを極力避けようとする。子ども同士のトラブルがあった時は、もしかしたら親同士が仲良くなれる絶好のチャンスかもしれないのに、相手の子の親にはあまり会いたくないな、と思ってしまったりする。あるいは、心にもない謝罪の言葉ですまそうとしてしまう。 こんなことで平和が創り出せるのか、心もとないなあ、と思います。 でも、この集会を創る過程で、私は市民の力、というものを改めて実感することができたんです。いろんな立場の人が集り、話し合い、時にはぶつかりあう。そして、それぞれが自分の分担課題を見極めて、誰に強いられることなく動いていくんです。今まで、同じ方向を向いているはずの人ともどこか背中合わせだったんじゃないか、そんなふうに思うくらいでした。」 富永 「そこにつなげていうと、私もいろんなことを今回学びましたけど、ひとつ、これは大発見、と自分で思っていることがあるんです。よく大同団結、とか、ゆるやかな団結、とかいいますよね。その時には、小さな違いは気にせずに、大きな目的の為につながろう、という意味が含まれているように思っていました。 でも、それって違うんじゃないのか。小さな違い、というのが無視されていった結果、自分の思いや意見は押し込められる。それは不満につながりますよね。一見大きなところで一緒になっているようなのに、実のところは内部でさまざまに分裂してしまっている運動って山ほどあるじゃないですか。それは、結局、その小さな違いを互いにきちんと違いとしてはっきりさせないことからくるんじゃないのか、ということなんです。違いに目くじらをたてる、ということではないですよ。そうではなくて、違いを違いとしてはっきりする、ということは、相手の論理と自分の論理をはっきりさせあう、ということだと思うんです。そのことで、逆に、一緒にできることもはっきりする、という順番が大事なのではと思いました。それが真に違いを認め合う、ということになるんだ、と。 みんな違ってみんないい、なんていう言葉は、そこだけ抜き出されてくると、いろんな意味で危ないとらえかたをされるな、と思うんです。みんな、という言葉にある暖かい共通性が無視されて、違いばかりが取り沙汰されてしまう危険と、その違いをあまり吟味することなく安易に「みんないい」と素通りしていく危険があるなあ、と改めて思いました。 とってもたいへんかもしれないけど、そういう作業をきちんとやり続けることも、平和を創る営みなんじゃないか、と思うんですよね。信頼感をもつからできることだし、そういう話し合いをすることで真の信頼感も生まれるんだと思います。」 川上「今、信頼感、という言葉がでましたけれど、信頼感を持つ、ということはとても大事ですよね。親子や教師と生徒、親と教師、同じ職場の人たち。上下関係ではなくて、横につながることで、同じ目的とか、何が課題なのかも見えてきますよね。でも、今は、そのつながりがどんどん切られているのが現状です。特に、教育の場で一番育ててほしいはずの他者への信頼感や安心感はどうなっているでしょうか。親同士、親と教師の信頼感を深めるための保護者会すら減ってきているわけで、PTAも結局は行事係としてしか機能していないことが多いですよね。役員をどう逃れるか、ということしか考えてない、みたいな所になってしまっています。そういうことで、子どもたちにだけ信頼感を育んで、といっても無理ですよね。大人はちっとも仲間づくりをしないでおいて、子どもには友達が大事よ、なんて、大人って勝手なことばっかり、ですよね。 でも、子どもたちは、とっても敏感にそういう大人の身勝手さや処世術を感じているし、人への不信感をつのらせているんじゃないかしら、と思うんです。だけど、いえだからこそ、というべきか、子どもたちは心から愛情に満ちた世界を切実に必要としているんじゃないでしょうか。戦争なんかどうしてするの、という問いかけを子どもからされると、どうこたえたらいいのかわからなくなります。でも、その言葉は、逆に言えば、何故人と人とが憎しみあう世界を大人たちはみんなでつくりだしているのか、ということなんでしょうね。」 浅野 「ねえ川上さん、『ねがい』という歌知ってる? こんな歌なんですけどね。そうだ進藤さんもご存じよね。」 浅野・進藤 「ねがい」を口ずさむ。 堀尾 「その歌、いいでしょう。僕はみんなで歌いたいと思っているんですよ。」と登場。 川上 「堀尾さん、これまでの話、お聞きになってましたか。堀尾さんは教育基本法のことや子どもの権利条約などについてもご発言されてますけど、今九条が危ない、そしてそれ以上に教育基本法が危ない、と言われていますよね。もし基本法が変えられるようなことになったら、子どもたちを取り巻く環境はどうなってしまうんでしょうか。」
堀尾発言 ・・・・・・ 質問などができれば。 |